湘南移住記 第四話「珈琲」

珈琲と遅い出会い

私は珈琲を飲むのが遅かった。早いやつは小学生から飲み出す。小5の時分、弟の友達が「ボスの缶コーヒーを飲んでいる」という噂を聞いたとき、なんともまあ大人だと思ったものだった。私が通っていた小学校には友情の庭という謎のフリースペースがあり、そこで下級生の噂を耳にしていた。後に私の同級の中で初めてヤクザになったU君がケンカ遊びをしようと行って、15人くらいを巻き込んでの騒動になった。友情度が低い庭だった。まあ普段は鬼ごっこなどして遊ぶ庭でしたが。

辿ってみてもこれくらいしか幼年期には珈琲の記憶がない。それほど、私にとって珈琲は縁遠い存在だった。高校の時に一時的に紙パックのコーヒー牛乳が好きになったくらいか。母はインスタントコーヒーをドリップする習慣があった。一つ穴の白いカリタとペーパーがいつも棚にあった。

21歳の頃、王子公園のカフェド仏蘭西で初めて喫茶店でバイトをした。その店では、すごくかわいがってもらった。ホールとして働いていたが、珈琲のドリップはさせてもらえなかった。すごくむずかしい技術がいると感じた。珈琲を美味しいと思わなかった。そう、美味しいと思えなかったのだ。

珈琲にハマったきっかけは26歳の頃。後に湯郷でSTAY BARを開く忠政さんに紹介されて、ホテルの宴会場を回る派遣をしていた時。朝が早く、缶コーヒーを飲む習慣がついた。習慣とは恐ろしいもので、毎日飲むようになっていった。大麻より中毒性がある珈琲にどんどんのめりこんでいく。元来の凝り性もあって、缶コーヒーから豆を買ってドリップするようになった。

レインボーとの出会い

今の肉ハサミがある場所で水路珈琲の竹内さんが「レインボー」というコーヒー食堂をされていた。竹内さんとは津山唯一のライブハウス、K2で出会った。エース君もいた。紅桜がイルフラミンゴというグループで活動していた時期だったはず。レインボーに最初なぜか入らなかったが徐々に通いだすことになる。そこで珈琲豆を買ったら冷凍庫で保存すればいいとか、ドリッパーの器具だとか教わった。うる覚えだが豆はバンコクコーヒーさんで買っていたような気がする。この頃はまだ国別の風味の違いもわかなかったし、珈琲の世界に入ったばかりなので何もわからなかった。ただ飲むものから楽しいものに変わっていった時期。何より竹内さんとの出会いが大きい。

この頃から竹内さんは海外で農園を持ち、タンカーで輸入するという夢を語っていた。たぶん生まれて初めて、大きなヴィジョンを持っている人に出会った。不思議と、この人はやるだろうなという説得力があった。それほど珈琲への情熱と愛が高かった。また、珈琲を通して世界の搾取を知った。「おいしいコーヒーの現実」みたいな映画を観て、クオリティだけ追求する西洋のやり方に異議を唱えていた。農園や流通経路を通して、利益が公正に分配されることを望み、自分の夢で変えようとしている。神戸でたくさんの人に出会ったが、世界を見ている人はいなかった。周囲の環境についても考えて、どうすれば津山がよくなるかよく語っていた。

その時点で気づけばよかったのだが、自分だけが良くなっても仕方がない。周囲や環境、ひいては世界をよくする視点にならないとそもそも自分が成り立たない。いやいやまずは儲けることが1番っしょ、て言う人はコロナでますます続かない。竹内さんの言っていた通りになってきてる。珈琲を通して、広い視野を持つことを教わった。珈琲が持つ大きな力を知ったのだ。

ふたたび神戸へ

それからウェブデザイナーを目指すために神戸へ再び出る。1人暮らしが始まり、しぜん珈琲も生活の一部になる。ルーティンのひとつになった感じだった。六甲道に「まめや」さんというその場で指定した豆を焙煎してくれる店があって、そこで豆を求めるようになった。焼きたての豆は、温かい。茶色い紙袋の温度にたいそう感心したものだった。焼きたての豆を淹れて初めて珈琲を美味しいと思ったかもしれない。珈琲に鮮度があることが理解した。ドンキで買った豆は安いが鮮度が悪くまずかった。美味さもそうだけど、まずさも理解できるようになってきた。今思えば焼いてから4日目以降が豆が落ち着いて美味しいのだが、当時の自分には焼きたてが1番美味しく感じられた。hatisではその感動を表現したくて、開店してしばらくは焼きたての豆を出していた。津山のお客さんに鮮度のいい豆を飲んでもらいたかったから。女将が焼くようになってからは、3、4日以降のものをお出しするようになったが。豆や焙煎によるが、過度な苦味が酸味が丸くなり、落ち着く印象だった。紅茶のファーストフラッシュのようなものだろうか。2週間以降経ったものは絶対にださない。こまめに焼いていたので、そうそうなかったことですが。

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