湘南移住記 第二十五話 「朝食」

仮に、自分の人生を湖として、ボートで向こう岸に渡っているのだとしたら、今どの地点なんだろう。店を開き、しばらく快晴で進んでいたが、この3ヶ月に突然の大雨にあい、頓挫した。だが、目指す地点はハッキリしているので、煤切れた手でボートを漕ぐのみだった。同乗者は奇妙な女将と3匹の猫。目指す地点にいま、一時到着する。

心地いい環境を選ぶ、というのは人生で初めてな気がする。

二十半ばの歳、働くために再び神戸へ出たが、慣れているから、友達がいるから、という理由だった。それは甘えにもつながっていた。

なんのつながりもない土地に住むという選択肢が発生したのも、ここ何年かで旅をする習慣ができたからだろう。智頭、倉吉、福山、尾道、宇野。近場で魅力のある土地に出会えた。言い換えると、主体的に人生を切り拓くことが出来始めたのかもしれない。

そのきっかけが相続問題だった。意思を通したことが、今後、自分の人生にプラスになるはず。知らない土地で、事業を興し、女将とやりたいことをする。家を手に入れる。家族をつくる。一から始めてやり通せば、また新しい風景が見えてくる。いずれ死ぬことも加味して、これからはめっちゃ楽しもう。

好きな時に好きな場所に住むというのは、アクティブな生き方だ。

納豆事件

鎌倉駅西口ロータリー。ぼやけた曇り空。三月の冷たい雨がぱら、ぱらと降っている。お腹がすいたので、電車内で女将と、朝食を取ろう、ということになった。湘南移住計画の鈴木さんに鎌倉駅の近くで朝食を出す店が繁盛している、と教えてもらったのを思い出し、グーグルマップで調べてみると、朝7時から営業中の店を見つけた。コバカバ、というかわいい名前の店。ここで朝食を取ることにした。

駅から十分くらいの場所。現金はないがカードが使える女将が、途中のローソンで傘を買ってくれた。雨をしのぎながら進んでいくと、駅から細い路地に入っていくと津山のかっぱ通りのような、取り残された昭和の模型といった趣の通りがあった。お洒落なイメージの鎌倉だが、メディアに取り沙汰されない面がリアルに映る。

地元の人がレンバイ、と呼ぶ鎌倉市農協連即売所がある通りに〈COBACABA〉はあった。こじんまりとした、名前のように佇まいのお店。入口にキッチンがあり、先に料理を注文するようだった。この日の客第一号は私達らしかった。ナチュラルテイストの女性がばたばたとしている。女将がローソンで買った傘を見ると、ちょっと待ってください、と店を出て傘置きをわざわざ取りに行ってくれた。ぽつねんと取り残されて、写真を一枚アイパッドで撮る。ぱしゃり。

丸い窓が、インスタグラムでよくみる北鎌倉の明月院を思い出させた。オマージュかもしれないな、と考えた。

メニューはメインのおかずとごはん、副菜、お茶。メインのおかずは魚や豆腐、納豆などから選べる。価格は700円くらい。女将の分も出さなければいけない。引っ越しの契約金は残さなければならないので、節約のためおかずなしのメニューを頼もうとしたが女将に気を遣わせてはいけないのでおかずありを選んだ。私は冷奴、女将は納豆。

「あれ、納豆好きなの?」と思わず聞いた。私が納豆が好きなのでいつも家の冷蔵庫には納豆をストックしている。しかし女将は手を出さなかったので、納豆が好きではないのかなと思っていた。

「納豆、好きだよ。でもやすきくんが1日に3パック食べるから…」。

そうだったのか。私が納豆を1日3パック食べてしまうから我慢してくれていたのだ。それを聞いて、申し訳ない気持ちになった。この会話が元で、朝食に1日1パックずつ2人で食べるようになった。今でも1日1パック以上食べたい衝動に駆られるが、今度は私が我慢している。

1年以上共同生活してもわからないこともあるものだった。女将の遠慮に甘えていた。私も、もう少し女将を慮ったほうがいいのかもしれない。

メインが豆腐の朝食

料理ができるまで、お茶を飲みながら待っていた。このお茶も鎌倉のお茶屋さんのブレンドだそうで、味わったことのない風味だった。冷たい雨にさらされた体にじんわりと染みる。

少し時間が経って、料理ができたとナチュラルテイストの女性が知らせてくれた。このお店は、できた料理を客がカウンターキッチンまで取りに行くスタイル。キッチンカウンターに一番近い席だったのですぐ取れた。

料理を頂く。まず漬物。鎌倉野菜を漬けたもので、ちょうどいい塩梅。五穀米は食感がぷちぷちしている。豆腐はなんでもないものだそうだが、甘いだし醤油の具合がいい。

驚いたのはお味噌汁だった。大根、人参、エノキ、蒟蒻、芽キャベツの具で、味噌に独特の甘さがあった。聞けば鹿児島の麦味噌を使っているらしい。女将のお父さんは鹿児島にルーツにがある人なので、この風味を知っていたそうだ。

3月の雨が淡々と土に染み入るような、静かな味わいだった。無言の内に食べた。女将との食事は、いつも私の方が早く食べてしまう。この時は私の方が遅かった。無意識に、大切に食べたのだと思う。時間をゆっくりかけて、大切に食事をしたのは初めての体験だった。北欧のアンビエントを聴いているかのような、深淵な感覚にも似ていた。コバカバさんの朝食は、今でも体にじんわりと感覚として残っている。

お味噌のことを聞いたきっかけで、ナチュラルテイストの女性と話す機会ができた。ナチュラルテイストの女性も、吉祥寺生まれ育ちで、子育てを機に鎌倉に移住してきたそうだ。吉祥寺生まれ育ちと聞いて、スゲー、と思ってしまったのは東京を頂点とする地方ヒエラルキーに知らず知らず入り込んでいるからだった。東京から地方に脱出して、ヒエラルキーが逆転している今、この意識は外しておこう。

ちょうどいい距離

「何時までこの店にいますか?」

と、ナチュラルテイストの女性に聞かれた。このまま出ようとしていたのだが、移住の相談をすると、ご主人を紹介してくれるとのこと。この店のご主人は街歩きや店をする人のお世話もしているらしい。この街の顔役なのかな、と想像した。その方が8時にくるので、待つことにした。

8時。店内には雨にも関わらず数組のお客さんが来ていた。隣には黒いコートを着たお洒落な男子が2人組で、朝食を食べていた。鎌倉でお洒落を決め込んで朝から食事をする2人に津山にはない意識の高さを感じる。

主人が来られた。シャイな方だと聞いていたが、とても話しやすい方だった。雨の日に、女将にどう鎌倉をプレゼンしようと相談したら、妙本寺さんというお寺を勧めて頂いた。雨の日は雨の日の鎌倉の楽しみがあるというお話しぷりに、鎌倉愛を感じた。住んでいる人が、その土地に愛があるかどうかのはとても重要に思えた。津山にはそれが足りない。こういう風に街を案内してくれる人もいない。

鎌倉には店同士でもゆるいつながりがあるらしい。ご主人はそれを緊密な連帯でなく、「ほどよい距離感」とご主人は表現していた。私が神戸に感じ取っていたもので、鎌倉を好きな理由が一つわかった。近すぎる距離が苦手な私には、この距離感はとてもありがたい。

店舗をする時の場所についても教えてもらった。家も欲しいので、住宅街でやったらいいという話になった。それはいいなあ。幸せだ。

妙本寺ともう一つ、報国寺もいいですよと教えてもらって、その二つの寺をめぐることにした。いきなりご縁ができて、なんだか幸先がいい。

〈COBACABA〉のカウンターキッチン。
ご縁をありがとうございます
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