湘南移住記 第四十五話 「横浜の夜」

鎌倉高校前の駅にたどり着いた。踏切を渡って東方面の坂を登っていく。この辺りは鎌倉でもアッパークラスが住む土地。前回の視察で、逗子の披露山を見た時、女将が興味を示していたので、アッパークラスが住むエリアを見ておきたかった。

お金持ちは高い場所に住む。かつて私が住んだ神戸も、鎌倉も変わらないようだ。神戸の所得層のグラデーションはわかりやすい。海側は治安が悪く、山側にお金持ちが住む。したがって、海沿いの阪神沿線より、山側の阪急電鉄の方が治安がいいと一般的には言われている。

私が住んだ阪急王子公園駅は、駅付近は庶民の街だが、六甲山の横に聳え立つ摩耶山に近づくにつれ、デザイナーズハウスや、敷地の広い家が増えてくる。

鎌倉高校駅前もわかりやすい。ここからの景色を見れば、なぜアッパークラスが集まっているか容易に想像がつく。途方もなく美しい海が、眼前に広がっているからだ。

目を見張るかのような、工夫が凝らされた家々。我が我がと、豪華絢爛な家のフェスティバルのようだった。津山では、こんな家がちょっと見かけない。津山と東京圏では、お金持ちの基準がそもそも違うのだろう。

高い所にあるので、歩くのは大変だった。かなりの傾斜だ。私の目の前を、子供達3人が歩いていた。この子たちはお金持ちの家なんだろうか。お金持ちの家に生まれても、子供だから、傾斜を登らなければならないのだろうか。

千里ヶ浜かもめ公園という小さな公園にたどり着いた。公園の目の前の家ではウーバーイーツで晩御飯を購入していた。私もこちらで成功すれば、ウーバーイーツを頼める。一度、天丼を頼んでみたい。

山から降りると、いつも見かけるような、普通の出立ちの家ばかりになった。鎌倉はここまで層が違う。幼稚園の迎えに行ったのか、お母さんが小さい子供を乗せてママチャリで通り過ぎて行った。目の上にある豪華な家には目もくれず。自分の生活の範囲で生きている意識を感じ取って、ほっとした。

横浜のドープホテル

鎌倉を後にして、宿をとっている横浜に向かった。今夜の宿の名前はホテルゼン。ホテルゼンの最寄りは石川町駅。

横浜駅の3つ前にあるはずなのだが、なぜか横浜駅に着いてしまった。どうも、大船から横浜まで線が2つに分かれていて、根岸線に乗らないと石川町駅に降りれないようだった。違う線に乗ったらしい。横浜の電車事情がよくわからない。

今乗っている電車は、このまま石川町駅の手前、桜木町駅で止まう。そこから歩いて行くことにした。

ここは横浜なのか、と訝しむくらい、人がいなかった。ほとんどの飲み屋は閉まっている。時刻は夜8時。緊急事態宣言下で、飲食店は閉めなければいけないものの、開けている店はいくつかあった。人がけっこう入っている。コロナの蔓延防止に努めなければならないが、店側は営業しないと死活問題だし、客側も外に出て飲みたいはずだ。利と益がお互いに交わっている形になる。

横浜を大きな箱として、その空間の中に、人という中身が全くない。大きく不安定な空洞に迷い込んだようだった。

桜木町から、大岡川を渡り、不老町へ向かっていく。言い換えると、明るい大通りから、薄暗い路地裏へ。グーグルマップで指し示すホテルゼン周辺は、宿が多いエリアのようだったが、どうも怖い。あかりも人通りも少ない。ひさしぶりに、都会の危険な場所へ来たという感じがする。三ノ宮から高架下沿いに、春日野道に向かって行く、あの感じ。どす黒い何かが埋まっているようなざらっとした空気感。その感覚は田舎にはない。

酒屋の自販機の前で、ホームレスとおぼしきおじいちゃんが、同じくホームレスとおぼしきおじいちゃんに「好きなの買えや」と酒を奢っていた。

ホテルゼンについた。断っておくが、これを読んでいる皆さまが思い浮かべるような、綺麗で清潔なホテルではない。入口から、赤い扉がずらっと並んでいる。しまった、これはラブホテルを選んでしまったのか。しかし、じゃらんからちゃんと予約したんだが、と戸惑っていると、「どうしたんですか」と2人組の女性に声をかけられた。

1人は、なんというか、夜の世界を渡り歩いてきたんだろうな、という妙齢の女性。もう1人は、精神的な病理を抱えていそうな雰囲気のおばあちゃん。この2人組の持つ空気にやられた。大丈夫だろうか。聞いてみると、私が予約したのは別館で、ここは本館らしかった。どうも2人はホテルの関係者らしい。別館は本館を曲がって左にあると教えてくれた。2人にお礼を言って、別館に向かう。

別館は、ホテルというかアパートだった。たしかに入口にホテルゼン別館という立て看板があるが、中身は収容所みたいなアパートメントだ。受付にはだれもいない。受付の右の壁に大きなホワイトボードがあって、部屋番号らしき数字が縦に書かれている。その内351という数字の横に、大きく「中山や」、と書いてあった。

えっ?と口に出して言ったと思う。「中山や」は私の名前で、ここに泊まれということだろう。しかしプライバシーもへったくれもないじゃないか。一応名前をや、だけにしているのは配慮があるが他のやり方があるんじゃないだろうか。このシステムは一体なんやねん。お金は前払いとあるが、払う人がいない。

仮に盗賊がこのホワイトボードを見て351号室に中山がいるなと襲ってくるかもしれない。情報が丸裸だ。いやまてちがう。そもそもこのホテルに泊まるやつは裕福ではない。だから安全も確保できるのか。ホテルゼンの安全性の構造に面食らった。

部屋は3階。途中でこれからキャバクラに同伴しますよ、といった中年男女とすれ違い、こんばんはと挨拶した。映画のワンシーンのようだった。351室は奥のほうにあってすぐわかった。なぜなら扉が半開きだったからだ。

これを見て私は怖くなってしまい先程の女性2人組に話を聞きに行った。受付がいないとか、私の恐怖を話すがどうも伝わらない。彼女たちにとってホテルゼンのシステムは日常なので何も疑うところがない。そのまま入っていいよと言われるのみ。

意を決して、もう一度351号室に戻る。扉を開けてみると、四畳半くらいの一室に、テレビと、ベッドと、読書灯。ここは、牢獄なのだろうか。テレビの横には、明日の朝、出る時に2500円を受付に置いてくださいと封筒が置いてある。扉張り紙には、住んでいる人もいますので、9時以降は音声に気をつけてくださいと書いてある。住んでいる人がいます?ここはホテルじゃないのか?アパートでもあって、空いている部屋をゲストルームとして貸しているということだろうか。

あ、もう終わったと思った。盗賊でなくてもサイコパス的な野郎に扉を破壊されたら俺は死ぬ。今からでも別のホテルを取ろう、と考えたが一日歩き詰めで疲れて動けかった。

扉の張り紙の横にWi-Fiのパスワードが書いてある。なんでここだけ進化してんねん。私より常識を持った方のほうが、このホテルにツッコミができただろう。最後かもしれないと思って、女将にインスタで電話をした。だが、このホテルやばい、と話すがどうやばいのと返されるばかりでうまく説明できなかった。こうやって時間が経って文字に起こすとまだ説明できる。

写真を撮ろうとしたが、写真を撮ると殺されると思って撮っていない。

とにかく、腹を括って寝ることにした。ぐっすり、熟睡できたと思う。朝起きると、女将からメッセージが送られていた。少し恥ずかしいが、そのまま載せます。

「やすきくん、長旅おつかれさま。
物件は大変だけど、神奈川に一人旅をして、やすきくん自身のリフレッシュとか、吸収が有ったのが良かったと思います。
明日もまた長い一日ですが、楽しんでください!
おつかれさま。」

物件の話を進めに来たのだが、女将は、私自身のことを考えてくれていた。この文を読んで、今でも泣きそうになる。ここに来れてよかった。

朝、受付に向かうと、管理人らしきおじいちゃんがいた。お金が入った封筒を渡した。へたしたら、何も言わなかったらタダで泊まれたかもしれない。雨が降っていたので、傘をくれた。

なんで、こんなに優しくていい人が、ボロホテルを経営しているのだろう。前回は藤沢の綺麗なホテルに泊まったが、フロントのやり取りを一つ取っても、上辺だけ綺麗で、心と心が通っていなかった。だが、ホテルゼンは心が通っていた。

実名で書いたのは、みなさんにこのホテルに泊まって欲しいからです。たぶん何事も変え難い経験ができる。ホテルゼン、いいホテルです。ぜひ。

,
%d人のブロガーが「いいね」をつけました。