湘南移住記 第106話 「浅草の蕎麦」

〈Hayden Tokyo〉を後にすると、もう日が暮れていた。ビルとビルの合間にのぞくスカイツリーが宝石のように点灯した。女将が東京に行っていた10年前には、まだ夜に灯がつかなかったらしい。

〈言葉と出会う展〉の展示で、この不安定な状況下でもおばあちゃんと蕎麦を食べに行けば不安もやわらぐ、といった意味のエッセイがあった。それを読んで、蕎麦を食べに行くことにした。

うどんと蕎麦

私はうどんが好きで、女将とたまに食べに行っていた。が、実はうどんが好きではないと後々に教えてくれた。女将は蕎麦が好きらしい。

蕎麦を食べに行く機会があっただろうか。思い巡るとあまりない。津山の〈家族庵〉は父によく連れてもらっていて、天麩羅蕎麦を食べた。

学生時代、神戸元町のうどん屋にバイトしていた時、マスターに近くの蕎麦屋に連れて行ってもらった。

「蕎麦屋はええのう。酒が出るし」と蕎麦を啜りながら言っていた。たしかに、一般的にうどんで呑むことはあまりないように思える。蕎麦と日本酒は合う。同じ日本の麺類で、この違いはなんだろうか。

うどん屋では怒られてばかりの日々だったが、マスターにはよくしてもらった。プライドの高いマスターがぽつり、「うどん屋なんて飲食業界の底辺やからな…。」と自虐気味に呟いたのを覚えている。繁盛していたお店だったが、今はチェーンのラーメン屋になってしまった。諸行無常。

Googleマップで調べて、〈手打ち恒〉という店に行くことにした。私は太麺が好きで、このお店は太い田舎蕎麦を出しているようだからだ。

ネクタイ

お店に着く。のぼりに、天然素材的なことを書いていた。北海道産の小麦か蕎麦粉をつかっているようだった。アメリカ産の小麦は薬品だらけで体によくないと聞いたことがある。どうせなら国産のものを食べたい。

ご主人はネクタイをしていた。それが印象的だった。バーテンダーや、珈琲店の主人もネクタイをすることがある。店への信用もそうだし、自分が出すものへの自信やプライドが窺える。戒めでもあるし、心を開いているようでもある。

私は普通の細い蕎麦と太い田舎蕎麦の2色蕎麦、女将は揚げ玉蕎麦。女将は無類の揚げ玉が好きだ。アルネ津山でもよく揚げ玉だけ買って食べているらしい。

美味かった。天麩羅を頼まなくても、麺だけで充分美味い。田舎蕎麦は噛みごたえがあり、しかも、けっこうお腹が膨れる。食後の蕎麦湯を飲むと、体が芯から温まる。2人とも、蕎麦を食べた後はなぜか体が温まった。

このお店は夜はお酒の肴を出している。ご主人と常連さんとの会話で、「メニューには書いてないですが生ししゃもがありますよ」と耳に聞こえてきた。生ししゃも。食べたことがない。今度来ることがあったら、頼んでみよう。

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